禅僧・映像クリエイター 蘆月真成(あしづき しんじょう)さん
情報過多の現代。絶え間ない通知やSNSのタイムラインに追われ、私たちの脳は常にフル回転し疲弊している。
そんな中、1999年生まれのデジタルネイティブ世代でありながら曹洞宗(そうとうしゅう)の厳しい修行を修め、現在はフリーランスの映像クリエイターとしても活躍する禅僧がいる。蘆月真成さんだ。
今回は、聖徳太子ゆかりの由緒ある名刹・宝鏡寺(ほうきょうじ)にお邪魔し、「映像クリエイター」と、「禅僧」を軽やかに行き来する真成さんにインタビュー。現代人がノイズを手放し、「究極のやすらぎ」を手に入れるためのヒント、そして彼が描く未来のビジョンを伺った。

宝鏡寺の山門

不動明王像

山門の天井絵
■ 聖徳太子から続く歴史と、映像クリエイター禅僧のルーツ
──本日は本当に素敵な空間での取材をありがとうございます。まず、この宝鏡寺の歴史について教えていただけますか。
蘆月真成さん(以下、真成):一番の始まりは、聖徳太子がこのお地蔵さんを作ったという伝説に遡ります。奈良時代にはそのお地蔵さんを祀るお堂ができ、鎌倉時代には領主の方が「お寺」として祀るようになりました。戦火に遭いながらも、鎌倉時代の木像が今も60年に1度ご開帳をする秘仏として安置されています。

曹洞宗(※1)のお寺はお釈迦様や両祖様(※2)を本尊とすることが多いのですが、うちは昔から本堂の真ん中にはお地蔵さんがいらっしゃるんです。竹之下地蔵尊や、竹之下のお地蔵さんという名称で永く親しまれているんです。
(※1) 曹洞宗(そうとうしゅう):日本の禅宗の一つ。壁に向かってひたすら坐禅を組む「只管打坐(しかんたざ)」の教えを重んじる。
(※2) 両祖:日本に曹洞宗を伝えた開祖の道元禅師(高祖・承陽大師)と、その教えを全国に広め基礎を築いた瑩山禅師(太祖・常済大師)の2人です。本尊の「お釈迦さま」と合わせて「一仏両祖」として仰がれています。

本堂

寺の歴史絵の連作
──これほどの歴史あるお寺の生まれでありながら、ご自身でカメラを持ち、映像クリエイターとして活動を始めたきっかけは何だったのでしょうか?
真成:純粋に「お寺を発信したい」と思ったからです。お寺の建築空間はミニマルで美しく、お経も響きやすい。これからの時代、発信していかないと素晴らしい文化も廃れてしまうという恐れがありました。大学時代に映像を作っている先輩に出会い、「これからは映像の時代が来る」と直感して。そこからYouTubeの海外のチュートリアルを見ながら、独学で編集を学びました。僕の根底には常に「内発的なモチベーション(やりたいからやる)」があるんです。それにこのお寺が大好きだからこそ誰かに任せたくないと思ってるんです笑
■ 「カッコつけていた」坐禅嫌いの過去と、運命を変えた恩師との出逢い
──修行道場での厳しい生活と、現代のクリエイティブな活動。そのギャップに苦しむことはありませんでしたか?
真成:実は僕、元々「坐禅」がすごく嫌いだったんです。中学校修学旅行の坐禅体験で完全に足がしびれてしまって。お寺の出身なのに。でも、隣の子には「全然しびれてないよ」って平気な顔をして、必死にカッコつけていた自分がいました(笑)。冷や汗かいて、鼻息も荒かったと思います笑そんな経験のあって大学を卒業して、修行道場にこの苦手意識を抱えていくのかと思うと憂鬱でしたね。

修行道場って、ガチガチに厳しい「お山病(※3)」になりがちな側面もあるんです。でも、大学時代に藤田一照さん(※世界的な禅指導者)の坐禅に出会い、衝撃を受けました。
(※3) お山病(おやまびょう):厳しい修行を行った本山(お山)でのストイックな感覚やルールを、一般社会に戻ってからも引きずり、他人に押し付けてしまう状態を指す俗語。
──どのように違ったのでしょうか?
真成:伝統的な「とりあえず足を組む」という形ではなく、骨盤の傾きなど、身体の構造から入るんです。
現代人は「椅子」で生活していますが、昔の人は「床」で生活していました。体そのものにジェネレーションギャップがあるのに、昔の様式をそのまま押し付けても、それは現代人にとって坐禅にはならない。教える側が様式を押し付けるのではなく、一緒にチューニングしていく。そのオープンマインドな姿勢に感銘を受けました。

■ 思考が彷徨う「三世」モードから、「今」この瞬間にフレーミングする
──スマホを開けば無限に情報が流れてくる時代です。デジタルネイティブである真成さんが、あえてアナログな坐禅を同世代に伝える意義をどう感じていますか?
真成:現代の人はくつろぐことが苦手で、少しでも時間が空くとすぐにSNSを開いて手軽に満足しようとしてしまいます。常に「考える」モードで動いていて、満員電車などでも情報を強制的にシャットアウトしようと表情も凍りついて、閉じこもりがちです。でも、そうやって生存戦略として閉じこもることに慣れすぎると、楽しいときも楽しめなかったり、美味しいものも美味しく感じられなくなってしまう。
それに1日のほとんどが首から上だけで完結しているような気がするんです。携帯とPCと向き合ってほとんど1日が終わるように。でもそれって勿体無いと思うんです。首から下、手や足の先まで含めてまるごとの命があるんだからもっと全身で生ききらないと!だから私の坐禅会ではまずは自分の身体に触れるところから始まります。
坐禅は、日々文字や情報と向き合っている状態から離れ、自分の肩書きや人間的な活動のすべてを一旦お休みする時間です。

──「考える」ことから離れるのは、意外と難しいですよね。
真成:般若心経に「眼耳鼻舌身意(※4)」という言葉があります。そして仏教には「三世(※5)」という概念があります。思考(意)というのは、放っておくと過去の後悔や未来の不安へと、勝手に三世を彷徨って行き来してしまう不安定なものなんです。だからこそ「身体」からのアプローチが重要になります。最近の若い世代が筋トレやサウナに行くのも、無意識に身体的なアプローチを求めているからだと思います。

般若心経の経文
でも、「感じる(身)」という行為は【現在(今)】の軸でしかできません。思考が三世を彷徨うモードから、身体を通して今に留まり「感じる」モードへシフトする。
──今に留まることで、不安から安心になるんですね。
真成:5分間嫌なことを考えるのと、5分間ただ今を感じ続けるのとでは、脳の使うところが全然違って余白ができるんです。だから安らぎが生まれる。
【編集部コラム】マインドフルネスの源流と「今ここ」の奇跡
「考える」から「感じる」へシフトし、今に留まる。この真成さんの語るプロセスは、「マインドフルネスの父」と呼ばれるベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハン(※6)の教えに深く通じています。彼は『今ここにある命の奇跡に気づき、深く生きること』の重要性を世界に説きました。坐禅や瞑想は特別な儀式ではなく、ただ「今」をフレーミングし直すための、極めてシンプルで実践的なメソッドなのです。
(※4) 眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんに):目、耳、鼻、舌、体という5つの感覚器官と、心・思考である「意」を合わせた仏教用語。
(※5) 三世(さんぜ):過去・現在・未来という3つの時間の概念のこと。
(※6) ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh):ベトナム出身の禅僧。「マインドフルネスの父」と呼ばれ、西洋にマインドフルネスの概念を広めた世界的精神的指導者。
■ 身体へのリスペクトから、世界へのAWE(畏敬の念)へ
──「寺イク?」では、自力で頑張るのをやめ、他力(空間や環境)にゆだねて心が凪ぐ感覚を『やすらギまる』と呼んでいます。坐禅において、この感覚に最短でアクセスするコツはありますか?
真成:坐禅の時、僕が必ずお伝えするのは「坐骨(お尻の骨)」を探してくださいということです。坐骨を探し、それを感じることで、強制的に「現在モード」に戻ることができます。

坐骨の位置を探す真成さん
そして、外側に正解を求めるのをやめること。頭で考えた「良い姿勢」は、体にとって心地よくない場合が多いんです。鎖骨を開き、体にゆだねてみると「体がこっちに動きたがっている」という感覚がわかります。そのムズムズに従ってあげると、自然と体がととのう。
整理整頓の「整(外側の正解に合わせる)」ではなく、誤差を受け入れながら自分の内側に合わせる「調える」という字を使いたいですね。

──人間の「意図(自力)」を手放し、体にゆだねていく時間なんですね。
真成:過去に上座部仏教(※7)の瞑想で「足が上がる、動く、下ろす」と細分化して気づいていく実践をした時、ふと思ったんです。「自分は何もしていないのに、心臓はオートマチックに動き、体はこんなにも精巧に機能してくれている。俺の体ってすごいな」と。そこから、自分の身体に対する深いリスペクトや畏敬の念(AWE)が生まれました。
その内的な身体へのAWEは、やがて「重力や月の引力、すべてがバランスを取っているから今こうして生かされているんだ」という、外界や万物への広がりに変わっていったんです。
道元禅師の『普勧坐禅儀』には「諸縁放捨 万事休息」とあります。これは、社会的な「人間的活動」から一旦離れるという意味です。人間的な行動をお休みし、自力を手放して身体にゆだねる。
その時、自分と世界が繋がっている。ことに気づき、本当の安らぎが生まれるのだと思います。
また「仏」という字は旧字体では「にんべんに弗(あら)ず。」で「佛」と表されていました。これとても味わい深いと思うんです。つまりここでは、人間的活動のお休みするところで仏行としての坐禅がたち現れてくるんです。
(※7) 上座部仏教(じょうざぶぶっきょう):スリランカやタイなどで信仰される仏教の伝統。自身の身体や心の微細な動きに気づき観察する実践を重んじる。
■ 「やらされる」から「やりたい」へ。坐禅を共に研究し、世界と遊ぶ未来

真成:伝統的な作法をガチガチに押し付けて、初めて来た人が「自分には無理だ」と苦手意識を持って諦めてしまうのはすごく嫌なんです。だからこそ、21世紀の人間として、現代の体をスタート地点にしてジェネレーションギャップを埋めるワークを取り入れたい。
ただ決められた通りに坐るのではなく、参加者と一緒に「ただ坐るということ」を研究・実験していくスタイルにしていきたいですね。
──「研究・実験」という言葉がクリエイターらしいですね。
真成:「やらせる」のではなく、「やりたいからやる」という内発的なモチベーションを持ってもらうことが一番大切だと思っています。修行は本来、楽しいものであるべきなんです。お釈迦様が悟りを開いたのも、苦行をやめて、オープンマインドで世界と遊ぶような感覚だったんじゃないかと僕は思っています。
だからこそ、仏教の専門用語ばかりを使うのではなく、まずは「からだ遊び」のような感覚で余白を作り、オープンマインドに世界と繋がる楽しさを伝えていきたいです。

■ 「今に留まる時間の豊かさ」を感じてみよう
──最後に、日々タイムラインやタスクに追われ、心が疲弊している「寺イク?」の同世代読者へメッセージをお願いします。
真成:難しいことを考える必要はありません。歩きながらでもいいので、少しでも「今に留まる時間の豊かさ」を感じてみてください。

アクセクして疲れてしまったら、まずは自分の「坐骨」を探してみる。自分のお尻の下に両方の手のひらを横からいれます。そうすると指先の方に左右に尖った骨が見つかると思います。背骨の最後の尾骶骨と間違えないように気をつけてくださいね。
そうしたら坐骨で地面やイスの底をしっかり捉えてもう一度姿勢を立ち上げてみる。坐禅は、自分の身体を通して自分と、自分を支えてくれているすべてとオープンマインドで親しんでいく時間です。難しく考えず、ただ「感じるモード」になれば、結果として自然とすべてが調っていきますよ。

PROFILE
蘆月真成(あしづき しんじょう)
1999年生まれ。曹洞宗大本山總持寺での修行を経て、現在は名刹・宝鏡寺にて僧侶として活動する傍ら、フリーランスの映像クリエイターとしてもミュージックビデオやプロモーション映像を手掛ける。伝統的な禅の教えを現代の身体感覚にチューニングした「やさしい坐禅」を提唱し、Z世代から高い支持を集めている。
(Instagram:@tano_shinjo_fficial)