「お寺の説法って、なんだか小難しくて眠くなりそう……」
「そもそも古臭い教えを自分ごと捉えられない。」
現代では、そんな風に思われる方も多いかもしれません。そんな中、仏教を自分ゴトとして捉えられるようなイベントが、6月20日(土)、東京都渋谷区・広尾にある浄土真宗本願寺派「上宮寺」にて開催されました。法話とエンタメに心を動かされながら、自然と仏教の学びを深められる先進的な取り組みです。

テーマは、親鸞聖人に殺意まで抱きながら、のちに一番弟子となった修験僧「明法房弁円(みょうほうぼう・べんねん)」。この800年前の史実でもあるドラマを、前半は「法話」で、後半は「ひとり芝居」で味わうという、これまでなかった異色のコラボレーション。
当日の模様を、体験記事とインタビューでお届けします。
■ 800年前の手紙が突きつける「往生おめでとう」の衝撃
広尾の閑静な住宅街に佇む本堂。正信偈のお勤めの後、静寂の中でイベントが始まります。まずは上宮寺の僧侶・藏田史哉さんの法話です。

今回の主役である「弁円」は、鎌倉時代、祈祷によって人々の願いを叶える修験道(山伏)として関東で絶大な力と縄張りを持っていました。しかし、親鸞という男が現れ「念仏ひとつで誰でも救われる」と説き始めると、弁円の元から人が次々と去っていってしまいます。
自分の生活基盤を脅かされた弁円は、親鸞を憎むようになり、ついに暗殺しようと企てます。しかし、結果的に彼は親鸞の弟子になり「明法(みょうほう)」という名をもらうのです。 「おそらく、プライドが1ミリでも残っていたら絶対にできない行為です」と藏田さんは静かに語ります。
そんな一番弟子となった弁円が亡くなった際、親鸞が残した800年前の手紙(『末灯鈔』)には、教えの芯に迫るような意外な言葉が記されていました。
「明法(弁円)が亡くなってお浄土へ参られたことは……返す返す嬉しく候(本当に嬉しいことであります)」
大切な弟子の死に対して「嬉しい」と綴る。現代の常識からすれば違和感を覚えますが、親鸞のロジックは真逆です。「お念仏をいただく者は、命あることにも、死んでいくことにも意味が与えられる。だからこそ『往生おめでとうございます』と言えるのだ」と藏田さんは解説します。
どんな命の終わり方であっても、仏様から「おめでとう、絶対豊かな意味ある人生だった」と肯定される。社会的地位、経済的優位性など外部からの承認で、人間の価値を測りがちな現代社会において、この「何があっても絶対的に肯定される」という世界観は、現代人の心を根底から見つめ直してくれます。
そのような見方から、亡くなっても往生おめでとうといえる物語を皆で大事にしていく。それは、とても優しく素敵な営為だと感じられました。
■ 信仰の本質を伝えるひとり芝居
法話で教えの輪郭を掴んだ後は、五島三四郎さん(俳優・僧侶)による「ひとり芝居」へ。本堂は一気に鎌倉時代の常陸国へと変わります。

村の異変に気づき苛立つ弁円、手下たち、無邪気な子供、そして親鸞聖人。五島さんは声色と身体ひとつで、何役もの人物を本堂に立ち上がらせていきます。 圧巻だったのは、殺意をむき出しにして親鸞と対峙するシーン。

親鸞は弁円の殺気に怯むどころか、「わしも修行から逃げた」「人を憎いと思う心がある偽善者だ」と、自らの「どうしようもなさ(煩悩)」を丸ごと自己開示します。完璧な人間などいない、弱き者こそ救われるという親鸞の懐の深さに触れ、弁円は持っていた弓矢を真っ二つに折り、その場に崩れ落ちました。

そして数年後、親鸞の帰りを待つ弁円が、かつて暗殺を企てた板敷山で、ふと自分自身の口から自然とお念仏がこぼれ出ていることに気づき、涙を流すクライマックスを迎えます。
「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」

景色は何も変わらないのに、自分の心だけがすっかり変わってしまった。かつて自分の地位を守るために殺意まで抱いた男が、すべての鎧を下ろして、ただ大いなる働きに身をゆだねるようなった。
私たちは日々、「他者から評価されたい」「自分のポジションを奪われたくない」という執着に縛られ、無理をして自分を大きく見せようと必死に生きています。しかし、五島さんの身体を通して追体験した弁円の人生は、「完璧な善人にならなくていい」「ドロドロとしたエゴ(業)を抱えた悪人のまま、すでに許されている」という究極の安息感を示してくれました。
法話とお芝居のかけ合わさった圧倒的な共感体験は、自我でガチガチに固まっていた心のコリを芯から解きほぐしてくれるような新しい仏教体験でした。
■ 【終演後インタビュー】語学留学のはずが僧侶に? 心から尊敬できる人に出会える尊さ

このユニークなお寺イベントは、一体どうやって生まれたのでしょうか。終了後、お二人にインタビューしてきました。
──ものすごい熱量でした……! 弁円の怒りから救いまで、感情が身体に迫ってくるようでした。五島さんは元々俳優とのことですが、どのような経緯で仏教をテーマの一人芝居をされるようになったのでしょうか?
五島三四郎さん(以下、五島):「実は僕、韓国語を勉強したかったんですよ(笑)。でも家に子供がいて勉強に集中できなくて。そんな時、短大時代の先輩から『うちの寺(北九州)で手伝いしながら勉強すれば?』と誘われて行ってみたら……韓国語の勉強より、お寺の生活の方が面白くなっちゃって」

──ええっ、語学の勉強のつもりがお寺に!?(笑) 一体どんなところに惹かれたんですか?
五島:「ある日、身内が離婚したという話になった時、ご住職が『下の子供が、“なんで私は生まれてきたんだ”と捉えてしまわないよう、子供が救われる言葉をちゃんとかけなきゃあかん』と仰ったんです。その思いやりにハッとして……。自分は本当に煩悩にまみれている人間だけど、こんな自分でも救ってくれる教えなんだって、すっと腑に落ちたんですよね。それで、1年半後にはお坊さんになってました」
──そんな五島さんのお芝居の動画を見て、藏田さんがオファーされたと伺いました。同じ『弁円』というテーマを、法話と芝居で連続して届ける構成は、見ている側としてものすごく入り込みやすかったです

藏田史哉さん(以下、藏田):「良い法話ってなんだろうと話し合う時、よく『説く側と聞く側に“同じ絵が浮かぶ”こと』だと言われるんです。五島さんのお芝居は、それをいい意味で強制的に、しかもものすごい臨場感で共有できる。法話の前知識とお芝居の感情体験が掛け合わさることで、全く違う感動が生まれるんじゃないかと思っていました」
五島:「僕も最初、ご門徒さんの目を見て演じようとしたらセリフが4回も飛んじゃって(笑)。でも、何度も演じるうちに『親鸞聖人はこんな気持ちだったのかな』と、どんどん味わいが深くなっていくのが面白いんです」
──確かに、言葉で『救い』を説明されるだけでなく、弁円のむき出しの感情を全身で浴びたことで、教えが細胞レベルにまで染み込む感覚がありました。現代の私たちがこの物語を受け取る意義を、お二人はどう感じていますか?
藏田:「『心から尊敬できる人に出会う』って、実はめちゃくちゃ幸せなことなんだなと、弁円さんを見ていて思いました。自分の凝り固まった価値観から一歩踏み出したからこそ、出会えた感動があった。その一歩の尊さが伝われば嬉しいです」
五島:「僕はもう……お芝居を見て、皆さんにそれぞれ感じてもらうしかないです! 喋るのは得意じゃないので!(笑)」
──(笑)。最後に、これからの時代、お寺は現代人にとってどういう存在になっていってほしいですか?

五島:「ゆくゆくは『パリピ孔明』ならぬ『パリピ親鸞』とかやってみたいですね。『南無阿弥陀仏だけでいいらしいよ。マジで? 余裕やん』みたいな(笑)。怒られそうだからやれないですけど、みんなが美味しくご飯を食べて『いただきます、ありがとう』って言える世の中になれば、もうそれでしかないです」
藏田:「教えの『真ん中(本質)』は絶対に変わらずに、周りに描く線をコンパスのようにバーッと広げていきたいです。道に迷ったら交番に聞くように、自分の人生について問える場所として、もうちょっとフランクにお寺を使ってもらいたい。敷居は低くしつつ、でも一般的な価値観とは全く違う『非日常の救い』がある。そんなバランスを持った場所にしていきたいですね」

──今日の法話×一人芝居」には、尊敬できる人や教えとのかけがえのない出会いにより、どんな人の人生でも意味のある物語に転換できるという大きな示唆があったと感じました。お2人とのお寺での出会いがかけがえのないものになる方もこれからどんどん増えそうですね。本日はありがとうございました!
【INFORMATION】
■ 上宮寺(じょうぐうじ)
毎月第1日曜日と第3土曜日に「常例法座」を開催中。
「どなたもようこそ」の精神で、初めての方でも気軽に参加できる開かれたお寺です。
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住所: 東京都渋谷区広尾5-2-29
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公式サイト:https://jyoguji.jp/
【PROFILE】
藏田史哉(くらた・ふみや)
上宮寺 僧侶。現代人の悩みに寄り添い、仏教の教えを分かりやすい言葉と多彩なアプローチで伝える注目の若手僧侶。
五島三四郎(ごとう・さんしろう) 俳優・僧侶。短大卒業後、俳優・保育士を経て、北九州のお寺での手伝いを機に得度。現在は「法話×芝居」など、独自の表現で仏教の魅力を発信中。
文・編集/KENLOCK(寺イク?)