AIとチャットして、効率よく正解らしいものを出し、SNSでは異なる意見を糾弾する。そんな真実らしいものを主張し合う「言葉の戦場」に疲れ果てた大人たちが今、求めているのは、安易な共感ではなく、他者の気配を肌で感じながら自らの思考を深く潜らせる時間ではないだろうか。
今回、『寺イク?』が、あえてこの哲学・宗教学のトークイベントを取材したのには理由がある。私たちが提唱する「寺活」は、手軽なリフレッシュや癒やしの手段として、伝統仏教の智慧を活用してみることを推奨するものだが、そのためには、自分達が無自覚的に抱えている問題に気がつくことが大事だと考えているからだ。そもそも私たちが今、日本社会のどのような「潜在的な問題」に息苦しさを感じているのか―。その前提となる背景への強烈な「気づき」を与えてくれるのが、このイベントの議論だと感じたのだ。そして、この議論は、自称無宗教者である多くの日本人とは無関係でない。むしろ致命的に関係するものともいえるものだとすらいえるのかもしれない。

2026年8月9日、京都・大垣書店(高野店)の店内カフェにて、ちえうみ書評委員トークイベント「信仰は共同体をつくりうるか――孤立の時代のつながりを考える」が開催された。
登壇者は、11万部を超える異例のベストセラー『福音派』の著者である宗教学者の加藤喜之氏(立教大学教授)と、『バラバラな世界で共に生きる』の著者である哲学者の朱喜哲氏(大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授)。さらに特別ゲストとして哲学者の谷川嘉浩氏(@houkago_kitsune)を交え、白熱した議論が展開された。
アメリカの宗教事情から日本特有の「無宗教」の正体、そして私たちが日常で直面する分断をいかに生き抜くか。効率主義の対極にある「泥臭い対話のプロセス」の価値を問うた、示唆に富む一夜の模様をレポートする。
■ 思想の裏にある「生々しい宗教体験」

イベントの前半は、加藤氏の著書『福音派』と、朱氏の専門であるアメリカの哲学者リチャード・ローティの思想を軸に展開された。
朱氏は、ローティが提唱する「リベラリズム(自由主義)」や「プラグマティズム」といった哲学が、実は「血みどろの宗教戦争や、強固なキリスト教社会へのカウンター(対抗)」として生まれたという背景を指摘する。「キリスト教国にあって、あえて無神論を貫こうとする」ローティの思想は、単なる知的な遊戯ではなく、切実な社会への抵抗なのだ。
朱氏自身も、この「宗教との距離感」について深い原体験を持っている。
「私の父は韓国から来たキリスト教の宣教師でした。かつて『東洋のエルサレム』と呼ばれた平壌(ピョンヤン)をルーツに持つ韓国のキリスト教には、抑圧された民衆のための伝統がある一方で、朝鮮戦争後は反共産主義と結びついた非常に原理主義的な側面も持ち合わせています。私は比較的リベラルな環境で育ちましたが、韓国から来る牧師の中には、子ども心に『これはちょっとやばいな』と思うほど原理主義的な人もいました(笑)。身近に強烈な宗教カルチャーがあったからこそ、『信仰とどう距離を取り、どう社会で共生するか』というローティの哲学に深く共感したのです」(朱氏)

一方の加藤氏も、著書『福音派』の根底にはアメリカ・テキサス州でのリアルな生活体験があると語る。
「大学院時代、私は福音派の人々が集まる教会に実際に通い、彼らと友達でした。ニュースでは排外主義的で狂信的に描かれがちですが、普段の彼らは非常に利他的で、外国人にも寛容な本当に『いい人たち』なのです。また、私の指導教官はユダヤ教の伝統を大切にしながら、キリスト教批判の本を翻訳するような人でした。周囲の哲学教授たちが『宗教なんて時代遅れだ』と切り捨てる中で、彼だけが『信仰と理性の緊張関係』を真摯に探究していました。そうした肌感覚があったからこそ、福音派の人々を単なる際物(きわもの)としてではなく、彼らなりの合理性や苦悩を持った存在として描けたのだと思います」(加藤氏)
■ 座敷わらしと、日本社会に潜む「無宗教」の強制力

話題は、日本特有の「無宗教」の捉え方へと移る。
科学や論理を重んじ、自らを「無宗教だ」と自認する現代の日本人。しかし、加藤氏は知人のエピソードを交えてこれを鮮やかに裏返した。
「私の20代の友人が青森に旅行した際、泊まった民宿で『この部屋は座敷わらしが出るよ』と言われ、本当に怖がって泊まれなかったそうです。彼女自身は無宗教だと思っていますが、日本人はこうした霊的なものやアニミズム(万物に魂が宿るという考え方)に対する感受性がめちゃくちゃ強いんです」(加藤氏)
さらに両氏は、日本の「無宗教」には、独自の同調圧力があることを指摘する。
もし、一神教に改宗した子どもが「教義に反するから」とお盆の帰省でお焼香を拒否したとしよう。すると、「俺は科学しか信じない」と豪語しているような無宗教の父親でさえ、「なんでお前はやらないんだ!」と激怒するはずだ。
欧米のように「私はこれを信じる」と言語化された明確な教義がないだけで、日本には「先祖や家を大切にするという、マナーの皮を被った強制力のある宗教性のレイヤー」が確実に存在している。長崎の隠れキリシタンが、表向きは仏教徒として振る舞いながら200年間信仰を守り抜いたように、私たちは無意識のうちに「世俗社会の建前」と「個人の見えない信仰(本音)」のバランスを取りながら生きているのだ。
■ 「クラブ」が「バザール」を侵食する分断の時代

ローティは、社会が平和に成り立つためのモデルとして「バザールとクラブ」という例えを用いた。
バザール(市場): 価値観の違う多様な人々が集まり、共通のルールでやり取りをする「公共の場」。ここでは宗教や思想の違いは一旦脇に置く。
クラブ(同好会): 教会や趣味の集まりなど、同じ価値観や信仰を持つ仲間だけが集まる「私的な場」。
「公共の場(バザール)では世俗的に振る舞い、個人の信仰は私的な場(クラブ)に留めておこう」というのが、これまでのリベラリズムの知恵だった。しかし現代は、この境界線が音を立てて崩壊しつつある。朱氏と加藤氏はその背景を、1970年代以降の「経済的な没落」と「多様性の推進」の衝突に見出す。
戦後の分厚い中間層が崩壊し、労働者たちが没落していく中、リベラル政党は経済問題よりもジェンダーや人種といった文化的な「多様性」ばかりを重視するようになった。「自分たちの生活の苦しさは置き去りにされている」という労働者の強烈な怒りが、保守的な宗教運動(現代のMAGAなど)と結びついた。
彼らにとって多様性を認めることは、自分たちの絶対的な真理(信仰)への侮辱に他ならない。「もはや自分たちの信仰はクラブに留めておくべきものではなく、この真理でバザール(社会全体)を支配すべきだ」と考え始めたのだ。
こうして「奴らと我々」の分断が進む中、SNS空間は相手の言葉尻を捉え、論破してぶった斬る消費的な戦場と化してしまった。
だからこそ、言語(ロゴス)による論理的な説得だけでなく、同じ時空間で身体性を伴う「カンバセーション(会話)」を泥臭く続けることが、今最も求められていると両氏は強調する。すぐに結果(論破や同意)を求めず、対話のプロセスそのものを引き受ける覚悟が問われているのだ。
■ 崩壊する平和と「ノブレス・オブリージュ」の覚悟

イベント終盤には、特別ゲストとして哲学者の谷川嘉浩氏が登壇。議論は、現代における「宗教性の再定義」と「知識人・宗教者の責任」へと深く静かに潜っていく。
谷川氏は、「正義論」で知られる哲学者ジョン・ロールズが、熱心な神学研究者でありながら戦争の悲惨な「残酷さ」を体験したことで政治哲学へ転向したエピソードを紹介した。
「現代において『残酷な経験をして哲学を学べ』というのは無理な話です。では、伝統的な宗教が力を失う中、どうやって人々に『精神性(宗教性)』を提供できるのか。そこに踏み込まなければ、人々はカルトやネットワークビジネスのような歪んだ集金組織に囲い込まれてしまうか、あるいはかつての国家神道のように、国家に回収されてしまいます」(谷川氏)
この鋭い指摘に対し、加藤氏は言葉に熱を帯びさせて応じた。
「現実問題として、残酷さはすでに目の前にあります。日本社会が享受してきた平和は終わりつつあり、大国による侵略戦争が起き、国内でも福祉が目減りして生活困窮者が溢れている。平成の30年間のような『楽しければいい、美味しければいい』という倫理では、もう立ち行かないのです」
加藤氏はさらに、社会のオピニオンリーダーや宗教者に向けて厳しい言葉を投げかける。
「信者がいて、お布施が入り、ベンツに乗っていればいいという時代は完全に終わりました。リーダーやクリエイター、そして聖職者たちは、迫り来る危機を直視し、言葉を紡いで社会を支えなければならない。ある種の『ノブレス・オブリージュ(持てる者の社会的責任)』として、その使命感を取り戻す必要があります」
■ 学校という「危うい空間」での共生の作法

質疑応答では、会場から非常に切実な問いが次々と投げかけられた。
「貧困で明日の食事もままならない人々に、平和や信仰の言葉は届くのか?」という問いに対し、朱氏は、かつてキリスト教が担ってきたチャリティや中間共同体の重要性に触れ、「行政の枠組みからこぼれ落ちる人々を支える『子ども食堂』などの活動が不可欠になっている。ただの福祉問題として処理するのではなく、彼らを動機づけ、エンパワーする『新しい言葉と物語』が要求されているのです」と答えた。
また、現役の高校教員から「多様なバックグラウンドを持つ生徒たちが、どうすれば教室で共生できるか」という悩みが寄せられた。
これに対する登壇者たちの回答は、この夜の議論のひとつの到達点とも言えた。
「共生とは、みんなが分かり合って1つになることではありません。全く背景の違う人々が、同じ年齢というだけで同じ空間に押し込められている教室は、本来『一緒にいること自体が怖い、危うい空間』なのです。だからこそ、動物の毛繕い(グルーミング)のように、お互いの緊張を和らげる『作法』としての他愛ない会話が重要になります。1つにはなれないし、嫌な相手もいるかもしれない。それでも諦めずに、毎日そこに身体を運んで参加し続けている時点で、教育としてはすでに大成功しているのです」
「分かり合う(結果)」を手放し、「ただ同じ空間にいる(過程)」ことを引き受ける。この温かくも現実的なエールは、学校現場だけでなく、分断社会を生きるすべての大人たちの心を静かに震わせた。
■ 編集後記:日本社会の「潜在的問題」の自覚と、共に生きていくための処方箋

思想、宗教学、そして現代の貧困や教育問題がシームレスに交差し、あっという間に過ぎ去った2時間。この夜の議論を通じて、前提として学ぶべきものと感じたのは、私たちが自認する「無宗教」というスタンスが孕む恐ろしさだ。明確な教義(テキスト)を持たない私たちは、しばしば自分の依って立つ価値観を、無自覚に「常識」や「正しさ」として絶対視してしまう。自分の基準がローカルな思い込みに過ぎないことに気づかぬまま、他者を「非常識だ」と断罪し、平気で切り捨てる。
名前のない原理主義とも言えるこの無自覚さこそが、社会に見えない同調圧力を生み、私たち自身を深く蝕んでいる「病巣」の正体ではないだろうか。
無宗教者が、心身を癒やすために、お寺や神社などの空間に赴く場合でも、まずはこの「見えない病」に自覚的になること。その強烈な気づきがあって初めて、日常から離れて静寂な空間に身をゆだねる真の意味が立ち現れるのかもしれない。強固になった「私」という主体を少しだけずらし、無意識に縛られていた規範をそっと手放してみるのだ。
背景も思想も異なる他者は、そもそも理解しがたく、恐ろしい存在である。しかし、同様に無自覚な自己の宗教性も恐ろしいのである。その前提に立ち返り、安易な共感や論破(結果)を急ぐのをやめ、お互いの違いを抱えたまま同じ空間で「カンバセーション(会話)」を続けること。
私たちを息苦しさから救う、即効性のある特効薬など存在しない。それでも、無自覚な病巣に気づき、他者と同じ空間に留まり続けること。その非効率で痛みを伴う歩みの先にこそ、バラバラな世界で私たちが共に生きるための、真の共感が待っているはずだと感じる時間だった。
■ 登壇者プロフィール
加藤 喜之(かとう・よしゆき) 宗教学者、立教大学文学部キリスト教学科教授。アメリカに15年在住し、大学院では神学・哲学を学ぶ。テキサス滞在時には福音派の教会に通い、現地の信仰や文化を肌で知る。著書『福音派』は11万部を超える異例のベストセラーとなっている。
朱 喜哲(チュ・ヒチョル) 哲学者、大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授。専門はアメリカの哲学者リチャード・ローティやプラグマティズム。韓国から来たキリスト教宣教師の父を持ち、宗教文化と社会の関わりについて深い原体験を持つ。著書に『バラバラな世界で共に生きる』など。
谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ) 哲学者。特別ゲストとして登壇。プラットフォームやアルゴリズムの問題性を哲学的に論じる一般書などを執筆し、『スマホ時代の哲学』などの著書がある。X(旧Twitter)アカウント:@houkago_kitsune
【INFORMATION】
■ ちえうみ(仏教・宗教プラットフォーム)
公式サイト:https://special.chieumi.com/
■アーカイブ情報:https://livepocket.jp/e/x–72